「このなかで、いちばんえらくなくて、ばかで、
めちゃくちゃで、てんでなっていなくて、あたまのつぶれたようなやつが、
いちばんえらいのだ。」
賢治のお話が昔からそんなに好きだったかといわれると
迷うところだ。
突然出てくるお経の文句や「雨ニモ負ケズ」の献身精神、
そんなものはわたしの中にあるものとちっともつながらない。
デクノボーと呼ばれれば腹が立つし
自分のものは他人に分けあたえたくない というみみっちい気持ちだって
捨てられない。
わたしはどこまでも現代の我がままで利己的な人間で
賢治のあこがれた慎ましい生活にはほど遠い 贅沢で満たされた毎日を
送っている。
そんな身からすれば 賢治の思想はどうも怪しげで胡散臭いものにしか
思えなかった。
けれども 賢治の物語に出てくる自然の風景には
どこかつながっている気持ちがする。
「どんぐりと山猫」の山のなか、「やまなし」の水底から見上げる泡、
つめたい雪をざっざっと踏んで歩く足。
ちいさい頃、おなじようなものを見た記憶が たしかにある。
おとなになった今ですら、夜に家へと帰りながら
星がぱらぱらと散らばる空を見あげてなにか「懐かしい」と感じるときが
たしかにある。
自然は賢治の物語にとって欠かせない友人であると同時に、
多くの人間同様 対峙せざるを得ない脅威でもあった。
「やまなし」も「注文の多い料理店」も、
「グスコーブドリの伝記」も「よだかの星」も「銀河鉄道の夜」も、
ただたのしく終わる童話ではない。
「やまなし」には平和な小川で突然 魚が鳥に狩られる描写がでてくるし、
ブドリは極寒に襲われたイーハトーヴを救うために 噴火を促し、
わが身を犠牲にする。
これらの話はどこかおそろしく 静かな死と哀しみの空気に
満ち満ちている。
しかし その哀しみは、自分や自分のたいせつなだれかのためのしあわせを
探すためのものでもある。
「ほんとうのさいわい」が何で、どこにあるのかもわからないまま
ただ列車に乗り、 それでもだれかのために
「さいわい」を探そうと心に決めるジョヴァンニとカムパネルラは、
おそらくそのまま賢治のすがたへとつながるのだろう。
わたしがその列車に乗ることはしばらくないだろう。
けれど 賢治の本を読みながら
ちょっとでもその気持ちに近づくことができたとき、
もっとやさしい人間になれたらな とすこし 思ったりもするのだ。